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「房総HEROES・前編」  田村 直人

 先月、春の選抜甲子園の出場校が決定し、千葉経済と成田高校吾が母校が見事に出場を勝ち取った。千葉からの2校出場はなんと史上初の快挙である。思えば僕が高校野球を真剣に見出した頃は、千葉県勢は関東大会では出ると負け状態と言ってもよく、センバツ出場も過去10年でたったの3校に留まっている。
 では千葉の野球は弱いのか?と言えば決してそんなことはない。昨年の佐倉シニア、3年前の習志野二中の全国制覇に象徴されるように千葉の中学野球のレベルは相当に高い水準にあり、彼らが県外の有力私立に引き抜かれあるいは県内で分散しすぎてしまうために、チームを仕上げる時間が少なく個々の選手の能力がものをいう秋の大会では遅れを取ってしまっていた、というところだろう(成田、経済の関東連覇により状況はようやく好転しだしたが)。
そして千葉勢の真骨頂はなんといっても夏の甲子園でのパフォーマンスである。毎年のように代表校が変わりながら、(過去30年で連続出場はH8〜H10の市立船橋のみ)初戦敗退は平成に入ってからののべ19校中わずかに5校。さらにこれは調べてみて自分でも意外だったのだが、平成の夏の甲子園で全都道府県中最多勝なのだ。

※ 平成元年から平成18年の夏の甲子園の地区別勝ち星。
順位 都道府県 順位 都道府県
1位 千葉 (32勝) 6位 奈良 (29勝)
1位 神奈川(32勝) 6位 鹿児島(29勝)
3位 大阪府(31勝) 8位 東東京(28勝)
3位 京都府(31勝) 9位 西東京(27勝)
5位 和歌山(30勝) 9位 愛媛 (27勝)


そこで今回のコラムでは千葉からの2校出場を記念して、過去の千葉の甲子園球児たちの中で特に印象に残っている選手たちをランキング形式で発表し、自分の中の思い出に浸り楽しみたい^^;と思う。


10位・・・荒井修光(我孫子・H3夏)

  父・到徳との親子鷹が注目を集め、甲子園でも2勝を挙げた。早稲田を経て捕手として日本ハムに入団し、選手としては目立った成績を残すことが出来なかったが、引退後新庄の専属広報として昨シーズンまでマスコミの前で活躍した。ちなみに小笠原が日本ハム時代に打席に入ったときの応援歌は実は元々荒井のものだった(観客が歌う「おーがさわらー」の部分は「のーぶみつー」だった)が、大きな期待にそぐわぬ成績不振により剥奪された。父はその後中央学院に移り春・秋の千葉を制し、H14の夏には決勝まで進んでいるが昨年女子高生に・・・

 9位・・・押尾健一(成東・H1夏)

 『名門!第三野球部』のライバルチーム・黒潮商業のモデルになるほど、あと一歩のところで甲子園出場を逃し続けていた「悲運の成東」。この年もAシードでありながら、打線が非常に弱かったためダークホース的な存在であったが、エースで4番の押尾が7試合を1人で投げ抜き(7失点)まさに彼1人の力で悲運の歴史にピリオドを打った。
優勝を決めた瞬間、成東ファンがグラウンドに大挙して流れ込み、マウンドの押尾に押し寄せた光景は千葉の高校野球マニアたちの語り草となっている。その後ヤクルトに進んだが一軍で2試合に登板しただけで引退した。

 8位・・・澤井良輔(銚子商・H7春準優勝、H7夏)

 ご存じ「西の福留、東の澤井」と謳われたスラッガーである。3年春に出場したセンバツ初戦でいきなりその福留率いるPLとの対決。澤井が初回に先制ソロホームランを放つも、直後に福留に3ランを浴び「ああ、やっぱり福留の方がすごいんだな」と素人のガキんちょなりに感じたのを憶えている。ロッテに入団し2002年ころ頭角をちょっとだけ現すも守るところがないこともあり結局芽が出ず。引退後は森田健作率いるクラブチーム・千葉熱血MAKINGに入団し、現在はサウザンリーフ市原のコーチをつとめている。

 7位・・・松本啓二朗(千葉経済・H16夏ベスト4)

 こちらも親子鷹。父は桜美林のエースとして全国制覇を果たしている。
1,2年生時は将来有望な快速左腕として大活躍したが、2年秋の故障を境に3年時には並の好投手となってしまった感は否めなかった。しかし、右腕井上の成長やバックの堅守もありなんとか甲子園の舞台にたどり着くと、2回戦の富山商戦で完封、その輝きを取り戻す。3回戦、相手はダルビッシュのいる優勝候補筆頭・東北。「ボロ負けだけはやめてくれ」と思いながらテレビを観ていたが、延長の末のまさかの勝利には本当に感動した。早稲田に進学後は外野手に転向し、昨年は六大学のベストナインに選ばれるなど2008年のドラフト候補として注目を集めている。ちなみに知っている人も多いと思うが、弟の歩己が現在経済の1番ショートとして活躍中である。


 6位・・・清水大輔(柏陵・H11春、H11夏ベスト8)

 印旛を率いてセンバツ準優勝の実績を持つ猛将・蒲原監督の最後の傑作がこのチーム。
「練習は嘘をつかない」というモットーの下、夜11時近くまでの過酷な練習は時に非難を浴びたが、それに耐え抜いた清水は、何の実績もない普通の中学生から千葉を代表するエースへと成長を遂げた。夏の甲子園では2種類のカーブを駆使し、失点わずか1という内容で3勝を挙げたが、準々決勝で後の後輩となる武内(ヤクルト)擁する智弁和歌山の豪打の前に力尽きる。試合後の監督の「素質がない子でも努力すれば報われるということを示してくれた。それでいい。」というコメントが印象的だった。進学した早稲田では、和田の抜けた後のエースとしてベストナインにも選ばれ、現在はJR東日本でプレーしている。


 予想以上に長くなってきたので^^;、後編に続きます。

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